宗教改革のスピリット
〜カルヴァンとジュネーヴ教会より〜
| 二、第一回目のジュネーヴへの召命(一五三六年)
まず、この一回目のことは、先ほども申しましたようにカルヴァンは遠回りをしてジュネーブに、それこそたまたま寄りまして、そこで一晩過ごすつもりだけだったのですけれども、それがそうではなくなってしまった。これはやはり神様の深い摂理が働いたとしか言いようのない劇的な出来事でした。 当時、このジュネーブの町にはサン・ジェルヴェ、マドレーヌ、サン・ピエールという三つの教会堂がありました。カルヴァンが頼まれました働きというのは、このうちのサン・ピエールの教会における聖書講義でありまして、その時彼はローマ書の聖書の解き明かしをしまた。これは、一五三九年のところにあります「ローマ人への手紙注解」と言われているものとほぼ内容は同じではないかと言われています。でも、ただ聖書の講義の講師をするというので終わるのではなくて、その年のうちにカルヴァンはジュネーブ教会の牧師となり、サン・ピエール教会堂で説教を始めるようになりました。
・教会の規律 こうしていよいよ御言葉を語り教会を建て上げるという働きに本格的に向かっていったわけです。カルヴァンが、御言葉によって教会を建て上げて行くというときに大変強調したことは、実は教会の規律の問題でした。一五三七年にジュネーブ教会規則を市議会に提出するとありますけれども、こういうようなものを作ったわけです。それは、よくキリスト教会に言われることなんですけれども、どういうものがキリスト教会なのかというときに二つのことがよく言われます。それは、神様の御言葉が語られているということと、礼典がしっかり守られているということ。説教と礼典、これがきちんとなされているのがキリスト教会であると。それはそうなんですけれども、カルヴァンはさらに、いくら説教がなされており、洗礼式や聖餐式というものが行われていたとしても規律のない教会というものは神経のない肉体のようなものだということを言ったのです。この教会の規律というものを保つためには信徒の間から信仰の模範となり指導者となる長老を立てまして、この人たちの責任において教会を建て上げて行く、このことを大変強調したわけです。 この規律というのは、あれはだめ、これはだめというような変な禁欲主義ということでは決してありません。そうではなくて、とかく私たちはイエス様によって罪を全て赦された、救われて天国に行けるといった、この神様の恵みというものを誤解しまして、本当の意味での恵みに気がつかない、つまり救われているんだから何をしたっていいのではないか、というような思い、この誘惑というのは何もこの時代のジュネーブの教会だけに限らず、いつの時代でもあるわけです。もう救われているんだから別に、そんな律法の言葉に耳を傾ける必要はないんだ、というような変な思いというものがやはりこの時にもあったわけでありまして、実はこのことは本当に福音の説教が語られていて、きちっと聖餐式が守られているのかどうか、ということとかみ合うことなわけです。 ただ説教が語られている、ただ儀式が行われているというだけではなくて、その説教と儀式の実りとして本当に教会に連なっている一人一人が、救われた生活、喜びの生活を送っているかどうか、このことをカルヴァンは自分が厳しく言うよりも、その群の中から、信仰の模範となりその規律というものを人々にあかしする長老を立てて教会を守って行く、建て上げてゆく、このことに力を注いだわけであります。 ですから、カルヴァンが教会で規律というものを強調したというのは、何か教会というのがそれこそ天国のような汚れの全くない、少しでも汚れたところがあったら切り捨てて行く、こういうことではありません。神様の恵みを受け、救われ、キリストの御言葉を受け、聖餐に預かっている者がその神様の祝福に相応しい歩みをしてゆく、そのために教会を建て上げてゆこうということを考えたわけです。 カルヴァンは聖餐式を大変重んじまして、出来ますならば毎日曜日礼拝の度に聖餐式を行うということを願いました。でも実際には三つの教会をカルヴァンは交互に回ってゆくということを強いられることになりましたので、これは物理的に不可能で、実際には一つの教会では月に一度守るということになったようであります。 この聖餐式もただ、パンを割いて杯を配って飲み食いすればいいということではなくて、やはり、この儀式を通して神様の栄光をあらわすことを求めました。これと規律との関係というのは、例えばある人が著しく大きな罪を犯した、神様の御名を汚したというときに、この聖餐式との関係で、戒規を行うという、このことを教会に指導いたしまして、ある者は一時陪餐を受けられないとか、ある者はそこから交わりを絶たれるということで、聖餐というものを通して教会の規律というものを守っていくという姿勢を出していったわけです。しかし、このことが一五三八年にジュネーブの町を追われることの一つの大きな原因にもなっていったわけです。
・信仰教育 もう一つ重要なことが一五三七年の四月にジュネーブ教会信仰告白作成という風にいわれていますようにこのことに代表されます信仰の教育ということ、これが重んじられました。 信仰はもちろん私たちの感情的な部分というものが大きなものを占めているわけですけれども、でも私たちが良いときに信じて、いやだったらやめちゃう、こういうようなことではなくて、きちっと神様の御言葉を学び、正しくその御言葉を消化し、自らの中に活かしてゆく、この面を重んじたわけです。実はこの宗教改革時代の少し前の中世の時代にキリスト教会が信徒たちへ知的な面での信仰の訓練というものを行わなかったために、何か宗教というもの、キリスト教というものが迷信的な事柄、意識だけというようなことにもなっていってしまいましたので、これに対する反省というのがあったのではないかと思うのです。カルヴァンとその仲間たちは何と言いましても私たちの信仰というのは神の御言葉、キリストの御言葉によって支えられ成長させられるということを信じていましたので、キリストの御言葉を信徒一人一人が教えられ、受け止め、その御言葉によってあかししてゆく、このことを強く願ったわけです。 そこでもちろん彼らは御言葉の説教というものに全力を投じるとともに、この年表にもありますように、数々の聖書の注解を出したわけですけれども、それだけではなくて私たちの信仰の教育のためにはカテキズム、問答書と言うものを作る、これが大切だということに気がつきそれを実行へと移したわけです。 この中で一五三七年二月信仰の手引きと言われているものが、新教出版社からも出されているものであります。そして四月にジュネーブ教会信仰告白というものを出しました。カルヴァンは子供たちに正しい信仰教育をすることを強調していたわけでありますけれども、どうもやはり子供たちにはまだこの信仰告白は難しいと判断されまして、それが一五四二年、一五四五年と改訂され、現在私たちが読むことのできるジュネーブ教会信仰問答というものがだんだんと形作られて参りました。 このあたりのいきさつというものがジュネーブ教会信仰問答の巻末にありますので、それをコピーしておきました。地図の下の、ちょっと小さな活字なんですけれども、新教出版社から出されていますジュネーブ教会信仰問答の終わりの方にあるものです。その中の大切なところを読んでいこうと思うのですが、ちょうど真ん中あたりのところに手紙の引用があります。十行目あたりのところにカルヴァンが信仰問答を重要視していたことは英国の摂政ソンマーセット候に宛てた手紙の中で、そのあと鍵括弧で書かれているんですが、ここを読んでみますと、「閣下よ、神の教会は信仰問答書なしには決して健全に保つことはできないでありましょう。それは良い穀物が無くならないで、年と共に増していくための種子のようなものでありますから、それゆえ永続性のある、すぐだめになってしまうことのない建物を建てようと望まれるならば、子供たちが良い信仰問答書によって教育されるようになさることであります。良い信仰問答書は彼らに手短く、幼い年齢に即して、どこに真のキリスト教があるかを示します。この信仰問答書は皆のものを説教される方向へ進歩させるため、また誰か不遜な者どもが異端を提唱する場合、これを見わけるため、すべての民を教育するという二つの用途に役立つでありましょう。」 こういうことを考えまして、もちろん第一には御言葉の説教でありますけれども、それとともに教理問答書、信仰問答書と言うものを通して信徒たちの信仰を成長させてゆく、このことを強く願ったわけであります。 このように一所懸命、頼まれたジュネーブの教会のために活躍したわけでありますけれども、彼はこの町を追われることになってしまいました。これは、ジュネーブと同じスイスの都市としてベルンという町があるんですけれども、ベルンではジュネーブの動きというものを警戒いたしまして、ベルン方式というものをジュネーブに押しつけてきたのです。 これは、簡単に言ってしまいますと、たとえば聖餐式で使うパンはジュネーブの教会の方では普通のパン種、イースト菌で膨らませて焼いたパンを使っていたわけですけれども、ベルン方式ですと、パン種を入れない、丸い、薄い、硬焼きのパン、これはカトリック教会のミサに行ったときにそういうものを見ることができますけれども、そのようなものでなければならない。それから、洗礼というものは教会堂の入り口に置かれている洗礼盤で行われなければならないというカトリック教会がずっと守ってきた、こういう様式というもので聖餐式、洗礼式という礼典を行わなければならないという圧力をかけてきたわけです。 実は、これはただ教会からの圧力というのではなくて、実は政府からの要請でもありまして、そうした力に教会が乗ってしまったということもあって、政治の力と教会の力ということが合わさりましてカルヴァンはジュネーブの町を追い出されてしまったわけです。 ところがカルヴァンを追放した一派は失脚いたしまして、カルヴァンに友好的な人々が再び実権を握り彼らは深くカルヴァンの復帰を願いました。前のいきさつがありますのでなかなか応じようとはしなかったわけですけれども、ついにこのジュネーブに再び帰ってきました。 |