教会の通ってきた道

〜プロテスタント開教から日本基督改革派教会設立へ〜


 

二、プロテスタント開教から日本基督教会に至るまで

 

(二)日本基督一致教会、日本キリスト教会へ

 けれども、改革派教会と長老派教会というのは教会政治においても、教義においても近い関係でありますのでこの状態が続くというのは双方とも好みませんでした。そこでアメリカ長老教会からアメリカオランダ改革派教会に合同の呼びかけがなされまして、さらにもう一つありましたスコットランド一致教会というところも含めまして、日本基督一致教会というものが一八七七年の十月三日に出来上がったわけであります。

 日本基督公会の誕生から五年後にこういうことが起こったわけです。その時に新しい教会を作るというときに、それはいろいろな課題というものがあるのですが、一番の課題、一致教会を作るときの課題は教会の信条のことでした。そもそも日本基督公会は万国福音同盟の九箇条という簡単なものを教会の信条にとっていました。しかし、一致教会の宣教師達は教会の成長のためにはしっかりした信条や教会政治が必要であるということを強く願っていたわけです。そこで、今日私たちにもなじみの深いドルト信条、ハイデルベルグ信仰問答、ウエストミンスター信仰告白、ウエストミンスター小教理問答、この四つのものを教会が採用するということを持って、この日本基督一致教会というものは旗揚げをしたんです。

 ところが、こうした宣教師達の思いとは違って、日本人の信徒には大きな不満が残ってしまいました。当時はまだ「耶蘇教略問答」と呼ばれていたウエストミンスター小教理問答しか日本語で読むことができませんでした。それも一方的にあてがわれるというようなかたちで、どうも自分たちは外国の教会に支配されている、植民地のようなものではないかというような不満が日本人信徒の心の中に芽生えてきてしまったわけなんです。

 こうした不満がやがて大きなうねりとなってかたちを現すようになりました。それが一八九0年明治二三年の十二月に行われました、一致教会の第六回の大会です。これは十二日間に及ぶ長いものでしたが、結局その押しつけられたという強い印象のある四つの信条をやめまして、使徒信条に簡単な前文を付けたものをとりまして、教会の名前を日本基督教会というふうにしたわけです。

 これは私のお配りしましたもので見ますと注の五番のところに日本基督教会信仰告白というものを載せておきました。このような文書を掲げまして、その後に使徒信条を告白するということ、これで充分であるということを考え出したわけであります。

 こうして、一八七二年明治五年に日本基督公会ができた後約五年で日本基督一致教会、さらに十三年で日本基督教会と、教会はこう姿を変えてきたのであります。日本基督教会の場合は、新しい教会が誕生したというのではなくて、押しつけられた信条というものをやめて日本の中でがんばっていこうというふうに改革したというような意味で、教会の名前は変わりましても、教会の歩みとしてはずっと一致教会のはじめから変わらないと考えました。

 ですから、教会の名前は変わりましても、その時の大会から、また第一回と数えるのではなくて、第七回、第八回と続けていきました。何も、新しい教派、教会を旗揚げしたのではなくて、昔の悪かった点を日本人向きに変えた、こういうことで、教会の歩みを始めたのがこの一八九0年という年であります。

 私たちはこうした五年たって新しい教会ができる、また十三年ほどたって新しい名前に変わるというような、めまぐるしい動きというものを見たときに、やはりある点を教えられるのではないかと思います。

 確かに日本基督公会という一八七二年に出来たものは、日本のプロテスタント教会の歴史の始まりでありまして、この群が出来上がったということは大変重要な意味を持っております。そして公会が狙いました無教派主義と呼ばれるこのやり方は、その後の日本の教会の歴史の根底に流れる、理想の教会として捉えられる向きが、いろいろな書物を見ると出て参ります。しかも、日本基督一致教会が日本基督教会に変わったときにこれは日本基督公会に戻ることであるということで、当時の指導者達は大変高く評価したわけです。ですから、先ほど注の五のところで、日本基督教会の信仰告白というものを紹介しましたけれども、その後の注の六を見てみますと、そこに日本基督公会規約試案というふうに出ています。これは私の方のミスプリントではありません。この規約、つまり押しつけられたと言って不満がいろいろあったものをかえる時に、もう自分たちはあの理想の日本基督公会に帰るんだ、ということでこのような名前の規約というものを作ったぐらいなのであります。

 そもそも、こうした無教派主義といわれるような公会の目的というものは、たしかに始めに日本に渡ってこられました宣教師達の考えというものが一番はじめにはあったわけですが、実はその人達に指導された日本人信徒達の強い願いもそこにだんだんかみ合わさっていったわけであります。

 ですから、教派にとらわれない日本独自のキリスト教会を建てるんだという理念が崩れ始めたときに日本人の信徒達は宣教師達に手紙を送り、その日本基督公会の理念を貫いてほしいということを強く訴えたわけです。それだけ自分たち日本の教会は欧米の教会とは違うんだ、これから独立するんだ、それが日本の教会なんだということを願ったわけです。しかし、この理念というものは結局中途半端なもので終わってしまったわけです。先ほども紹介しましたように年数で言えばわずか五年でありました。それはキリスト教会の長い歴史の中で生まれはぐくまれてきました教派というものを罪悪視しまして、送り出された宣教師の外国ミッションの背景を無視するような教会形成をしたところに、短期間で破綻してゆくということになってしまった原因があるのではないかと思うのです。

 私たちはこの日本基督公会の歩みから教会を建て上げてゆくにあたってのある課題を与えられていると言ってもいいんではないでしょうか。主イエスキリストにあって教会は一つのはずなのだから私たちは諸外国のように醜い争いをして教派に別れることなどしないのだ、というのはこれはもっとらしい言い方のように思えます。教派というのは人間の罪の結果の現れである、などということも言われるかもしれません。でも簡単にそうと言い切れないこともあるわけです。

 確かに神様の選びによる、真の公同の教会は一つである。この一つの教会は神様の目にははっきりと見えていらっしゃるわけですけれども、人の目にはまだ見えません。そこで、この見えない教会を出来るだけこの世において現そうとして立てられたのが、地上の見える教会、具体的な教会であります。神様のそれこそ無限の御心というものを一所懸命この地上で少しでも実現してゆきたいとして、具体的に立てられていったのがこの地上の一つ一つの教会なんです。小さな教会という器が、大きな無限の永遠の神様の御旨というものを実現しようとするわけでありますから、それはやはり小さないろいろな特徴というものが出てくるわけであります。それらがいい意味で刺激しあうことによって、一つのキリストの体なる教会というものが地上の中に多様なかたちで出てくるわけであります。

 神様は歴史の中で働き、教会を建てて下さった。この大きな御業の中に私たち日本の教会はあります。その深い神様の導き、歴史を御支配なさる主のみ手というものを充分受け取る前に、日本独自の教会なんだ、一つの教会なんだとこだわり続けたところに、公会のもろさというものがありました。

 このように、日本のプロテスタント教会の歴史が、このような無教派主義を出発点として持っていると言うことが、その後の日本における教会の歴史ということにいろいろな影響を実はもたらしてきたんです。

 それはいったいどのようなものだったかといいますと、実はその後に出来ました一致教会というもの、先ほども言いましたように外国語でしか読めないものを勝手に押しつけられたという印象を持つこの教会に否定的であって、名前を変えて、制度も変えた日本基督教会の動きというものを高く評価し、これは実は日本のプロテスタントの始めに掲げた理想の日本基督公会への立ち帰りだというものが日本の教会の歴史を見つめるいわば主流という言いかたであります。事実、有力な書物はこの立場から書かれているものが多いのです。

 そして、それは一致教会や日本基督教会において最も重要な指導者といわれる植村正久という指導者が一致教会の四つの信条を採用したと言うことは聖書の中にありますように、あの少年ダビデがサウルの鎧を着たような姿だった、もう身動きできなくなっちゃったんだと語っています。実際に、この植村正久という指導者の願い通りに一致教会から日本基督教会へと教会は姿を変身させていったわけですけれども、この時彼はここで不十分ながらも日本基督教会の理想とされるところを実行しうる範囲において実行したるなり、と、もう大変な喜びを表したわけです。

 では、果たしてそうなのでしょうか。この不満の多い一致教会の姿をよくよく見ますと、確かにその時の指導的な宣教師の方々が一段高いところから日本人信徒を見下し、日本語で読むことのできないものを教会の信条にしてしまうという、外国からの押しつけというイメージが強かったのは確かかもしれません。けれども、私たちはこの一致教会から日本基督教会へと流れるところに大きなある問題が潜んでいると言うことをしっかり見据えたいと思います。

 宣教師達が、なぜこの日本語にもなっていない四つの信条を採用しようとしたのかと言いますと、それは何と言いましても教会の成長に、健全な教理と善良な秩序が必要である、これは不可欠であると考えたからです。これは、言い換えますと、教会ではしっかりと聖書に基づいた教理と教会政治が必要だということ、これを日本の教会に残したかったからなんです。でもまだ歴史の浅い日本人の教会や信徒達はそのことが見抜けなかったのであります。確かに高度な神学的体系を外国語で押しつけられるとなりますなら、日本人信徒の反発は当然起こることであると言えるでしょう。それはまさにサウルの鎧を着せられることなのかもしれません。けれども日本のキリスト教会が建てられ歩みを始めましたその間の統計を見ますと、この一致教会というものは着実に成長しているといえました。その間日本人の教職者達も次々と誕生して参りましたし、日曜日の礼拝を厳守すること、これは当然聖書から導かれることでもありますけれども、ウエストミンスター信仰告白の二一章でも教えられていることですが、こうしたことが信徒の中で実を結んで参りまして、外面内面とも充実していったわけです。こうしたことを狙って一致教会を作りだした宣教師の方々は神学的に整った改革派諸信条を教会に根付かせたいと願ったわけです。

 けれども、日本基督教会となったこの立場の人から言えば、宣教師の方々に言われるときはまだ自分たちは何も言えない、キリスト教のこともよく分からないし、実績もないから仕方なくそれを受けよう、まあ、ダビデが鎧を着せられた、でも、だんだんと自分たちの方も力を付けてきたらもうその鎧をはねのけて、今度は一番良いものとして先ほど注のところで紹介しましたような文章を作文して、それに使徒信条を付ける、これを教会が持っていればいいんだ、ということを決断したわけです。

 しかし、この使徒信条に前文を付けるという簡単なスタイルのところに大きな落とし穴があります。それは、こういうものをよく簡単信条と呼ぶんですけれども、その力のある限界といってもいいものなのかもしれません。

 私たち日本基督改革派教会の創立宣言の中に、「新約の基督教会も初代より今日に至る迄凡ゆる異端と戦ひ、之に勝ち、真理を保持して今日に至れり。」とありますように、教会はある面では異端と戦えるように信仰告白をしてきました。信条を作成してきました。信条というのは単に教会が聖書をどう解釈しているかというものをまとめたものだけではなくて、この上に教会を正しく建て上げてゆくための大切な土台、聖書というものの次に土台を置くものであります。

 しかし、これを簡単に扱ってしまうというところにいろいろなほころびというものが出てきたわけです。それを私たちはさらに日本の教会の歴史が進む中で見ることが出来るのです。


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