教会の通ってきた道

〜プロテスタント開教から日本基督改革派教会設立へ〜


 

二、プロテスタント開教から日本基督教会に至るまで

 

(一)一八五九年から始まるプロテスタント教会の歩み

 少し前にレジュメを作りまして、それをお手元にとっていただいたかと思いますけれども、ちょうど綴じておきました一番最後のページに「日本教会宣教の系譜」というものを折り込んでおきました。これほど、またこれ以上のたくさんのキリスト教諸教派が今日の日本の国内にはございます。わかりやすくするため、上の方の日本基督改革派教会というところを四角に囲んでおきましたが、ずっと左の方、歴史から見れば遡ったときに、一番はじに一八五九年という大変半端な年号がそこに記されています。この半端な年号が年表の先頭を飾っているのでありますけれども、これは歴史家の共通の見方としまして、この年こそ日本におけるプロテスタント教会の始まりとして覚えられている年号であります。

 後ほどふれることになりますが、日本で最初のプロテスタント教会といわれるものが誕生しましたのは一八七二年明治五年でありまして、キリスト教に対する禁制が解かれたのは翌一八七三年であります。ですから歴史のスタートとしては、こちらの方が記念すべき年なのかもしれません。それにもかかわらずもっと前の一八五九年というのが、おそらくどのような書物を見ましてもこれが日本のプロテスタント教会の元年であるとされておりますのは、この時に宣教師たちが公に初めて日本にキリスト教の教職者として国内に入ることが許され、まだキリスト教禁制の下であるにも関わらず御言葉を述べ伝える準備を本格的に開始したというこの事実がこの時にあるからなのです。

 一八五八年、つまり出発点とされる前の年に日米修好通商条約が調印され、翌年に発行されました。これは私がお配りしましたプリントの二枚目以降のところに参考資料をいくつか付けておきました。皆さんにこういうような条文とか条例がこの時代あったというのを後でも見ていただけたらと思ってお配りしたのですけれども、こういう条約がありました。

 そこで、アメリカ人の宗教活動を自由に保障しまして、翌年、つまり出発点となる年にアメリカから様々なミッションの宣教師たちがやって参りました。とはいいましても当時の日本はまだキリスト教というのはまさに邪教でありまして、すぐに御言葉が述べ伝えられるというような土壌は全くなかったわけであります。厳しい制約や監視の下で、宣教師の方々は医療活動とか英語教育というものを日本伝道の準備として、また伝道の糸口として見出していたわけです。

 実は、そうした活動がやがて神様に用いられてキリスト教会を建て上げてゆく大きな力となっていったわけです。ですからその伝道の準備といいましても本格的に宣教師の方々が日本の中で御言葉を述べ伝えるという決意を持って第一歩を記した年、それを新しい時代の始まりとして今日の教会、また様々な書物はこの年を元年としているわけです。

 ちょうどそのころ日本が長年の鎖国を解いて開国するという時代の流れとと相合わさって、青年たちが英語教育というものに大変興味を持ち始めるようになりました。その中でも特に大きな影響を与えましたのがJ・H・バラという人物であります。一八七一年明治四年の末から翌年一月の第一週にかけて、年の初めの初週祈祷会と呼ばれるものが行われました。これは主に横浜に住んでいる外国人たちが開いたものなんですけれども、ここに、バラ宣教師に英語を習っていた青年たちが出席いたしました。彼らはほとんどキリスト教のことは何も分かっていなかったわけですけれども、でも、そこに集う外国人たちの、キリスト教信仰を持っている者達の祈りの姿というものに強く打たれまして、キリスト教に惹かれて参りました。この参加者の中から九名の受洗者が与えられ、レジュメの二番の(一)のところにも書いておきましたように、一八七二年明治五年の三月十日に、先に洗礼を受けていた二名を加えて合計十一名で日本における最初のプロテスタント教会といわれます日本基督公会、横浜公会、今の横浜海岸教会が誕生いたしました。

 バラはそもそもアメリカオランダ改革派教会の宣教師でありまして、協力をしましたヘボンという宣教師はアメリカ長老教会の宣教師でありました。このように日本におけるプロテスタントの伝道というものは長老派、改革派の宣教師達によって始まったわけであります。

 ただ、その時彼らは母教会というか、自分を送り出してくれた教会を持っていたわけですが、この日本で教会を建てるときにはいずれの外国の諸教派にも属さず、日本独自の教会を建てていこうとしました。これを後の人が無教派主義などという言葉を使いますけれども、そのように、何かの教派とは関係ない教会を建てようということを目指したわけです。

 この方針に従って横浜に続き東京にそして翌年には神戸、大阪に日本基督公会の教会が立ち上がっていったわけです。この教会が出来始めました一八七三年に先ほどいいましたように、キリシタン禁制の高札が撤去されるという大きな出来事が起こりました。

 もう一応かたちの上でキリスト教は邪教ではなくなったわけでありますので、そこで多くの外国ミッションの宣教師がやってきまして、キリスト教を日本人に伝えようという動きが始まりました。そうするとどうなるかといいますと、それぞれの宣教師の方々は、国から祈りと献金によって支えられ、その自分のバックにある、自分が指導されまた信仰の確信を得たその教会のやり方を持ってキリスト教会を建て上げてゆこうと考えます。

 ですからこうした宣教師の方々が日本にやってきたところ、もう既にちょっと前からプロテスタント教会の伝道が始まっており、その群を日本基督公会と名のっていました。その日本基督公会の方は、この教会はどこかの教派に関係ある教会ではなくて日本の唯一のプロテスタント教会が我々の群だ、こう願っていたわけですけれども、後から来た人たちはそうは思っていなかったわけです。

 既に一つのグループがあるなあ、としか思わなくて、どんどん自分たちの独自色を出して本国からの献金に支えられて伝道を始めていったわけです。ですから当然日本基督公会の地位も弱まって参りました。それとともに公会を支えていた宣教師達にもどうも亀裂が走ってしまいました。簡単にいいますと、改革派の宣教師達は公会の立場を貫こうとしたわけですけれども、教派意識の強かったアメリカ長老派教会は本国と協議した結果、このままではまずいということで、日本長老会というものが組織されました。これが先ほど紹介しました日本教会宣教の系譜というものに第一長老教会と、丸括弧でくくられている、この動きであります。


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