フランス改革派教会信仰告白(フランス信条)

(ラ.ロシェル信仰告白)(1559年)

翻訳:泥谷逸郎牧師(山田教会)

T.神と啓示

1.神

 われわれは唯一の神のみがいますことを信じ告白する。神は唯一で,一つの本質からなり,霊,永遠,不可見,不変,無限,人知を越えた,言葉では言い尽くせないお方であり,全能,全知,全き善,全き義であられ,全く憐れみ深い。

2.啓示

 この神は,第一にご自身のみ業により,その創造と保持によって,また神がそれらをご支配される方法によって,第二に,初めに預言によって啓示され,第三に,われわれが聖書と呼ぶ書物の中に文書によって言い表された神のみ言葉によって,なお一層明確に,ご自身を人に啓示される。

3.聖書

 聖書全体は旧約聖書と新約聖書の正典から成っている。その詳細は以下のとおりである。

 モ−セ五書,すなわち創世記,出エジプト記,レビ記,民数記,申命記。ヨシュア記,士師記,ルツ記,サムエル記上下,列王記上下,歴代志上下,エズラ記,ネヘミヤ記,エステル記,ヨブ記,ダビデの詩編,箴言あるいはソロモンの格言,コヘレトの言葉,ソロモンの雅歌。イザヤ書,エレミヤ書,エレミヤ哀歌,エゼキエル書,ダニエル書,ホセア書,ヨエル書,アモス書,オバデヤ書,ヨナ書,ミカ書,ナホム書,ハバクク書,ゼファニヤ書,ハガイ書,ゼカリヤ書,マラキ書。

 聖マタイによる聖福音書,聖マルコによる聖福音書,聖ルカによる聖福音書,聖ヨハネによる聖福音書。聖ルカの第二の書,またの名を使徒言行録。聖パウロの手紙,すなわちロ−マの信徒への手紙,コリントの信徒への手紙 一,二,ガラテヤの信徒への手紙,エフェソの信徒への手紙,フィリピの信徒への手紙,コロサイの信徒への手紙,テサロニケの信徒への手紙 一,二,テモテへの手紙 一,二,テトスへの手紙,フィレモンへの手紙。ヘブライ人への手紙,聖ヤコブの手紙,聖ペトロの手紙 一,二,聖ヨハネの手紙 一,二,三,聖ユダの手紙,黙示録または聖ヨハネの黙示録。

4.聖書,信仰の規準

 われわれはこれらの聖書は正典であり,信仰の真に確かな規準であると告白する。それは大多数の一致と教会の同意によるのではなく,聖霊の内的証言と説き明かしによっている。聖霊はわれわれに,有益ではあるが決して信仰箇条の根拠にすることはできない教会の他の文書と聖書を区別されることを認める。

5.聖書の権威

 われわれは,これらの文書に含まれているみ言葉は,神に起源をもち,ただ神の権威のみを保持するのであって,決して人の権威を持ってはいないと告白する。

 このみ言葉はあらゆる真理の基準であり,神礼拝とわれわれの救いに必要なすべてのことを含んでいる。それゆえ人間であろうと,天使であろうと,何者もこれに付け加えたり,差し引いたり,または変更したりすることは許されない。

 古さも,慣習も,多数も,人間の知恵も,判断も,判定も,法も,命令も,公会議も,幻も,奇跡も,この聖書に逆らうことはできないのであり,一切のことは聖書に従って吟味され,規制され,改革されなければならない。

 われわれの信条このような精神からわれわれは以下の三つの信条を認める。すなわち,使徒信条,ニカイア信条,アタナシオス信条である。なぜなら,これらは神のみ言葉に一致するからである。

6.三位一体

 この聖書は,われわれが信仰告白した、唯一で,単一の神本質には三つの位格,すなわち,父,子,聖霊があることを教える。

−父は第一原因,万物の根源であられ起源であられ,
−子は父の言葉,父の永遠の知恵であられ,
−聖霊は父の力,権勢,実行力であられる。

 子は父から永遠に生まれ,聖霊は父と子とから永遠に出られる。
三位一体の三位格は混同されないが,区別され,同一の本質,同一の永遠,同一の力を持つゆえに分離されないが,栄光と威厳において同等であられる。

 それゆえわれわれは,この点に関して古の公会議の結論を受け入れ,聖ヒラリウス、聖アタナシオス、聖アンブロシウス、ならびに聖キュリロスに至る聖なる博士たちによって拒絶されたすべての分派と異端を拒否する。

7.創造

 三つの位格の間で協同する神は、力と知恵と人知を越えた慈愛によって、ただ天と地とその中にある一切のもだけではなく,見えない霊も創造されたとわれわれは信じる。

天使と悪魔

 それらの霊の中で,サタンと悪魔たちは堕落し,永遠の滅びに落ちたが,天使たちは服従し堅持された。前者はすべて善なるものの敵である。従って,全教会の敵であるが,神の恵みによって守られてきた後者は、み名をほめたたえ、選民の救いのために仕える務めを与えられた僕たちであることをわれわれは信じる。

8.神の摂理

 神は一切のものを創造されただけではなく,それらを治め,導き,この世の一切のことをみ心のままに起こり来させ,み旨に従って一切を定められることをわれわれは信じる.確かに,われわれは神が悪の創始者であるとか,有罪性が神に転嫁されるとは信じない。それどころか,神のみ旨が一切の正義と、一切の真の公平の、至高で、誤りのない基準であると信じる。しかし,神はみ心のままに悪魔や不敬虔なものたちを用いるために驚くべき方法を使われる。神は彼らが行う悪,それゆえに彼らが有罪であるその悪を善に変えることを知っておられるのである。

 こいうわけで,われわれは神の摂理なくしては何事も起こらないと告白し,自分の理解力を超えることに問いを発することをせず,謙遜をもって隠されている奥義をあがめるのである。

 それどころか聖書が、われわれに平安であり,安全であるように教えていることを個人的な生活に取り入れる。なぜなら一切のものの源であられる神は,父親のように細心の注意を払って、われわれを夜昼見守ってくださるのでみ心でなければ頭の髪の毛一つも地に落ちることはないからである。そうすることで、神は悪魔とすべてのわれわれの敵にくつわをはめられるので、神の許しなしでは極く小さな危害をも、われわれに加えることはできないのである。

U.人間とその罪

9.最初の純潔と人間の堕落

 少しの汚れもなく,聖く,神の像に似せて造られた人間は,自分自身の過ちによって,受けていた恵みを失った。従って,人間はその本性が全く腐敗しているので,一切の正義と善の源であられる神から離れていることをわれわれは信じる。

自然宗教の不可能性

 霊的に盲目になり,心が堕落した人間は完全さをまったく失い,その名残を少しも残していないとわれわれは信じる。いくらかの善悪の判断能力をまだ持っているが,それにもかかわらず彼の中に残っている光は、神を求めることが問題になると暗闇に変わるので、人は自分の知性と理性によっては神に近づくことは決して出来ないとわれわれは言うのである。

恵みの必要

 人はあれやこれやとやる気にさせられる意志をを持っているとはいえ,それはまったく罪に捕らわれているので,神が人に与えておられることを善に用いる自由を持ってはいない。

10.罪の遺伝

 われわれは,アダムの子孫全体は,われわれが誤謬として排斥するペラギウス主義者たちが教えたような単なる模倣ではなく,遺伝的悪徳である原罪の汚れによって腐敗していると信じる。

 われわれは、子孫にどのように罪が伝わるのかを念入りに調べる必要があるとは思わない。なぜなら,神がアダムに与えられたものはただ彼に対してのみならず,彼と共にある子孫全体のためでもあり,またそういうわけで,まさにアダムそのもののうちにあって、われわれは一切の良いものを取り去られ、甚だしく困窮し,呪われるものとなったと言うことを知ることで十分であるからである。

11.罪の宣告

 われわれはまた原罪の悪性は,言葉の本来の意味から言うと,胎児から幼児に至るまで全人類をまったく罪に定めるに足る違犯であり,神は罪をそのように考えておられると信じる。

 神は神の子たちから有罪宣告を取り除かれ,恵み深い慈愛によってその宣告をもはや彼等の所為にはなさらないにもかかわらず,有罪性に関して言えば,洗礼後も原罪は常に罪であるとわれわれは信じる。

罪の恒久性

 われわれはまた原罪は常に腐敗と反逆の実を生じる堕落であり,最も聖なる者でさえ、それに抵抗はするが,この世にある限りは弱さと欠陥によって汚され続けていると信じる。

V.イエス・キリスト

12.イエス・キリストにあるわれわれの選び

 神は,あらゆる人間が陥っている腐敗と一般的有罪宣告から,人間の行いには考慮されないで,永遠不変のご意志によって,主イエス・キリストにある神の善意と憐れみによって選ばれた者たちを召されるとわれわれは信じる。

 神は,ご自身の義を示すために,他の者たちをその同じ腐敗と有罪宣告の中に放置される。それはちょうど、前者には神の憐れみの豊かさを輝かせておられるのと全く同じであるとわれわれは信じる。なぜなら前者が他よりも善いからではなく,神が彼らを世界の創造以前にイエス・キリストにあって定めておられた不変のご計画に従って分けられたまでである。

 もっとも,われわれは生来,神がわれわれに先駆けわれわれをその気にならせてくださるまでは,ただの一つの親切心も意志の善良な傾向も,良い思いも持つことができないのであるから,自分自身の能力でそのようにうまく自らを適応させることができる者はだれ一人いない。

13.われわれの救いはキリストにある

 われわれの救いに必要なことはすべてイエス・キリストの中に提供され伝達されたとわれわれは信じる。われわれが救われるために与えられたイエス・キリストは,われわれのために全く同時に知恵,義,聖化,贖いとされたのであるから,彼から離れるならばわれわれは唯一の避け所として持たなければならない父の憐れみを捨てることになると信じる。

14.イエス・キリストの神性と人性

 神の知恵と永遠のみ子であられるイエス・キリストは,一つの同じ位格において神であられ,人であられるためにわれわれの肉を受けられ,眞に人性においてわれわれに似ておられ,み子の体とみ子の魂において苦しむことがおできになり,彼はあらゆる汚れから清くあられたということ以外はわれわれと違わないことをわれわれは信じる。み子の人性に関しては聖霊の隠れた力によってはらまれたとはいえ,キリストはアブラハムとダビデの真性の子孫であられるとわれわれは信じる。かくしてわれわれは古い時代に教会を混乱に陥れたあらゆる異端を拒否する。

15.キリストの二性

 まさに,一つの位格,即ちイエス・キリストには二つの性質が分かちがたく結合されて一つにされており,それらのおのおのはそれでも独自の特質を保っている。その結果二性の結合において神性は,固有の性質を保ちながら,創造されることなく,無限で,あらゆる物を満たしている。同様に人性は有限に留まり,形と限界と固有の特質を備えているとわれわれは信じる。
その上,イエス・キリストは復活によってご自身の体に不死を取られたとはいえ,それでもなおわれわれは人性に固有な特性を捨てたまわなかったと信じる。

 それゆえ,われわれは神性においてキリストを見るとはいえ,われわれは決して彼から人性を取り去らないのである。

W.救いのみ業

16.キリストの死

 神はみ子を世にお遣わしになり,完全な義を成就させるため,また天上の命をわれわれのために獲得させるために,み子がご自身を死に渡され,復活されたことのなかに,われわれに対する神の愛と最高の慈愛を示すことを欲したもうたとわれわれは信じる。

17.われわれの和解

 主イエスが十字架の上で捧げられた比類もない犠牲によってわれわれはみ前に義人として受け入れられ,またそのような者として見做されるために神と和解したことをわれわれは信じる。もしも神がわれわれの過ちを赦し,それらを覆ってくださるならば,われわれは確かに神のみ旨にかない,養子縁組みにあずかることができるのである。

 それゆえに,われわれはイエス・キリストがわれわれの全く完全な聖であられ,われわれの負うべき負債と罪の支払いのための全き償いを彼の死のうちに持っており,この方法による以外には救われないと強く主張する。

18.無償の赦し

 すべてわれわれの義は,ダビデが言っているように罪の赦しに基づいており,唯一の真の幸いはその赦しの中に見出だされるとわれわれは信じる。
それゆえに,われわれは神のみ前に自らを義とすることができると考えるあらゆる他の方法を拒否し,どのような徳行もどのような功徳も考慮せず,神のみ前に恵みと慈しみとをわれわれに見出ださせるために,そしてわれわれのすべての過失を覆うために,われわれに与えられたイエス・キリストの服従にただ自らを委ねるのである。

 事実われわれは,たとえどのように少しばかりその基礎,すなわちイエス・キリストの服従を離れたとしても,われわれはどのような平安も他に見出だすことができないし,かえって自分自身を顧みると神に憎悪されるに値するので,不安によって常に悩まされ,われわれはイエス・キリストにあって愛されていて,しっかりと納得させられるまでは、決して神と平和であり得ないことを信じる。

19.祈り

 われわれは,神がご自分をわれわれの父として見させてくださるという全き信頼をもって神に祈る自由と特権を持つのは,祈りの方法によるのであるとわれわれは信じる。なぜなら,もしわれわれが仲保者によって神のみ側に招かれないとすれば,父に少しも近づけないであろうからである。み名によって祈りが聞き入れられるためには,われわれの頭であられるイエス・キリストから生命を受けるべきである。

20.信仰による義

 神は,ただ信仰によってわれわれを義にあずからせくださると信じる。
イエス・キリストを信じる者がひとりも滅びないために,主がわれわれの救いを獲得するために苦しまれたと言われているのであるから。

 われわれはキリストによって与えられた生命の約束がわれわれの用のために供され,それらを受けるときその効力を感じるので,イエス・キリストの義にあずかっていると信じる.なぜなら,われわれは神のみ口そのものがわれわれに明白な保証を与えてくださっており,確かに約束された事を裏切られることはないと確信するからである。

 そういうわけで,信仰によって与えられる義は,神がわれわれを愛してくださっていることをわれわれに明らかにされ保証しておられる,恵み深い約束によっているのである。

21.信仰の賜物

 われわれは聖霊の隠れた恵みによって信仰の光を受けていると信じる。
その恵みは、神が良しとされる者に分かち与えられる、無償で個人向きの賜物である。信者は自分自身誇るに足るものは何一つ持っていないのであるから、他のもっとまさった人々よりも愛された事実は、彼らにより一層の義務を課すのである。

堅忍の賜物

 また,信仰はただ選民を正しい道に招き入れるために一時的に与えられるだけではなく,生涯の終わりまで彼等を信仰に堅忍させるために与えられるとわれわれは信じる。なぜなら,恵みのこのみわざを始められるのは神であられ,そのみわざを完成されるのも神であられるからである。

22.われわれの再生

 われわれは腐敗した性質によって,罪の奴隷にされているので,新しい生命に生きるためにわれわれが再生されるのは,この信仰によるのであると信じる。

 確かに神がわれわれに聖霊をくださり、われわれが信仰によって,聖く,神を恐れて生きる恵みを受けることを知るようにと福音によってわれわれに与えられた約束は、われわれにふさわしい。

 善行したがって,信仰は善い、聖い生活をしたいという熱意を冷ましたりしないばかりか,かえってその願いを起こし,駆り立て,必ず善行を生み出すのである。その上,われわれの救いを成し遂げるために,神はわれわれを再生させ善を行うことができるようにしてくださっているとはいえ,御霊の導きのもとに行う善行はわれわれを義としたり,あるいは神がわれわれを神の子として受け入れるに値するとされるのでは決してないと告白する。なぜなら,もしもわれわれの良心がわれわれを無罪放免してくださったイエス・キリストの贖いにより頼まないならば,われわれは絶えず懐疑と不安に揺り動かされているであろうからである。

23.律法と預言者たちの効用

 イエス・キリストの来臨によって,律法の象徴と表象は終わったとわれわれは信じる.しかしながら,旧約聖書の儀式はもはや用いられなくても,われわれはキリストの人格の中にすべてのことが成就され,儀式が象徴し意味した事柄の実体があると信じる。

 その上,われわれの生活を規制するためにも,福音の約束の中に堅くされるためにも,律法と預言者たちの助けを借りなければならないとわれわれは信じる。

24.偽りの教理の拒否

 イエス・キリストは、われわれに唯一の助け主として与えられ,御子の御名によって御父に直接に話しかけることを命じておられ,神がみ言葉の中で命じられた方法に従って祈ること以外は許しておられないので,死んだ聖人の執り成しなどすべて人間の考えついたことは,正当な祈りの方法から彼らをそらすためのサタンの虚妄と策略に他ならないとわれわれは信じる。

 われわれはまた神に対して自らを贖うために人間が持っていると推測する他の手段一切を拒否する。なぜなら,それらはイエス・キリストの死と受苦の犠牲の価値を失墜させてしまうからである。

 要するに,われわれは煉獄はこの売り場から売り出されている誤謬であると考える。そこから人々は修道誓願,巡礼、結婚とある特定の食べ物の禁止、祝日のもったいぶった遵守,告白聴聞,贖宥とその類の一切のものによって恵みと救いを獲得できると考えるようになる。

 これら一切のことは、糊着している誤った功績思想のゆえのみならず、人間の良心に軛を課する人間的な作り話から出ているゆえにわれわれはそれらを拒否する。

X.教会、その本質

25.説教と礼典の務め

 しかし,われわれは福音による以外にはイエス・キリストと彼の恵みを全く知らないのであるから、キリストの権威によって立てられた教会の秩序は、神聖にして不可侵としなければ持ちこたえ得ないとわれわれは信じる。

 牧師が正式に招かれ,その責任を忠実に果たすときには尊敬され,敬意をもって聴かれなければならないとわれわれは信じる。それは神が目下の者の援助と手段に幾らかでも依存しておられるからではなく,神はその責務とその訓練を通して一つの体としてわれわれを保持されることをよしとされるからである。したがって,出来る限り神のみ言葉の説教と礼典の務めをなくすのがよいとする幻想を排斥する。

26.教会の唯一性

 それゆえ信者は,いかなる者も教会に加わらないことに甘んじていてはならず,かえって共通の教育に服し,イエス・キリストのご支配に服しながら共に教会の唯一性を守り,保持しなければならないとわれわれは信じる。すなわち,それはたとえ公権力と法律がそれに反対したとしても、将来神が真の教会の職制を設けられるであろうところではどこでもそうでなければならない。

 教会に従わず,分派を作るために離脱する者たちは、みな神のご命令に反するとわれわれは信じる。

27.真の教会

 しかしながら,何が真の教会であるかを注意深く、洞察力をもって判別すべきであるとわれわれは信じる。なぜならあまりにもこの名称が乱用されているからである。

 真の教会は、神のみ言葉によって一致している集団であり,み言葉に従いたいと願う信者の共同体であり,み言葉に信頼を置く純粋の宗教であるとわれわれは言うのである。すなわちそれは、信者の生涯を通じて益となり,彼らが進歩し,常に以前よりさらに前進するに従って、神を恐れてたゆみななく成長し,強くなり、進歩するのである。

 さらに,彼らの努力が何のためであろうと,彼らは熱心に自分たちの罪の赦しに頼るべきである。

 しかしながら,われわれは信者の中に偽善者や神に見放された者たちがいないとは言わないが,それを理由にして悪意によって教会という合法的な名称を奪い取ることはできないのである。

28.偽りの教会

 真の教会の定義に基づいて,われわれは神のみ言葉が受け入れられず,少しもそれに服従しない場合には,また礼典を正しく用いない場合には、そこに教会があると認めることはできない。

教皇派

 われわれが教皇派の集まりを非難する理由はこうである。すなわち,そこでは神の純粋な真理が破棄され,礼典が歪められ,変質させられ,偽りのものにされるか,あるいは全くなくなるばかりではなく,あらゆる種類の迷信と偶像崇拝が流行しているからである。それゆえ、われわれはその行為に加わりそれに関与する者はみな、イエス・キリストの体から離れており,また自ら身を引いていると見なすのである。

 しかしながら,教皇派には教会の何らかの小さな痕跡が残り,その上、洗礼の本質的な実態がそこには存続しているので − 要するに、その上に洗礼の有効性は執行者によらないのであるから − 洗礼を受けた者は再洗礼を必要としないとわれわれは告白する。しかしながら,教皇派にある腐敗のゆえに,自らを汚すことなしに洗礼のために幼児をそこに差し出すことはできないのである。

Y.教会:その組織

29.職制

 真の教会に関して,われわれは主イエス・キリストによって立てられた秩序に従って治められなければならないと信じる。すなわち,そこには教理の純粋性が保持され,悪徳が矯正され,抑制され,貧しい者たちとすべての苦しんでいる者たちが窮乏から救われ,集会が神のみ名によってなされ,成人も幼児も同じくそこに築き上げられるために,牧師,長老、執事がいる。

30.牧師の平等性

 われわれは真の牧師はみな、どのような地位にいようとも,唯一の頭,唯一の主権者,唯一の全教会的監督,すなわちイエス・キリストの下にあって同じ権威と平等の権能を持っていると信じる。

教会の平等性

 このゆえに,われわれはいかなる教会も他のいかなる教会に対して,何らかの支配を,あるいは 何らかの絶対的支配権を主張することはできないと信じる。

31.召命

 誰も自分自身の権威によって教会の職務を求めることはできないが,可能な限り,また神がそれを許したもう限りは,選挙によってなされなければならないと信じる。 われわれは − 真の教会がもはや存在しない現代では
− 神が荒廃と破壊の中にあった教会を建て直されるために,特別な方法で人々を起こされることが時には必要であったという理由から、例外もあることを付け加えるのである。

内的召命

 しかし,そうであったとしてもともかく,われわれは常に規律に従わなければならないと信じる。すなわち,すべての牧師,長老,執事は神によってその職務に召されたことは確かであると信じる。

32.教会間の一致

 われわれはまた,監督に選ばれた者たちが教会の全体を指導し,治めるために講ずべき手段を共に探求することは良いことであり,また有益であると信じる.ただし、主イエス・キリストがこのことでわれわれに命じられたことから何ら逸れることがなければの話しである。

各個教会的用法

 そうとはいえ、このことでは便宜上、それぞれの場所で、何らかの特別な規則があっても差し支えない。

33.規則と教会規程

 しかしながら,われわれは神に仕えるという人間的な口実の下に導入したいと願う、あらゆる人間的な作り事とあらゆる規則とを拒否する.また,それらによって良心が束縛されることを拒否する。

 われわれは融和の樹立に貢献し,それを維持し,最初から最後までそれぞれを従順の中に保つにふさわしいことしか承認しない。

除名

 それゆえ,われわれは主が除名について宣言された点に関して服従しなければならない。われわれはこの除名をそのすべての「付属規定」と共に必要不可欠であると是認し告白する。

Z.礼典

34.礼典一般

 礼典はわれわれをさらに豊かにみ言葉に堅く立たせ,神の恵みの保証としるしとして、われわれに役立つためにみ言葉に付け加えられ,われわれの弱さと無知のゆえにそれらは信仰を助け,援助するために同時に働くと信じる。

 礼典はわれわれにとって、決して空しいものではなく,神が御霊の力によって働かれる手段としての外的しるしであるとわれわれは信じる。

 われわれは,しかしながら,礼典の一切の本質と実体はイエス・キリストの中にあり,もしそれらがキリストと切り離されるならば,もはや幻影もしくは煙にしか過ぎないと確信する。

35.洗礼

 われわれは全教会に共通のただ二つの礼典だけを認める.すなわち洗礼と聖なる晩餐である。

 洗礼は、われわれが子とされたことの証としてわれわれに与えられている。何故なら,われわれはそもそもキリストの血によって聖められ洗われるためにキリストの体に接ぎ木され,その上聖く生きるために聖霊によって新しくされるからである。

 われわれはただ一回限り洗礼を受けるのであるにも関わらず、われわれに与えられる益は人生の全過程に及ぶと強く主張する。したがって,われわれはイエス・キリストが常にわれわれの義であり,聖でありたもう恒久の保証を持っているのである。

幼児洗礼

 さて,洗礼は信仰と悔い改めの礼典であるとはいえ,神はご自分の教会に両親とともに幼児を受け入れたもうのであるから,われわれはイエス・キリストの権威によって,信者から生まれる幼児は洗礼を受けなければならないと主張する。

36.聖晩餐

 われわれは,聖晩餐はわれわれがイエス・キリストと一つである証しを提供すると告白する。事実,キリストはわれわれのために一度死に,よみがえられたのみならず,ご自分の肉と血によって真に食べ物を与え,養っておられる。それはわれわれが彼と一つとなり,彼の生命がわれわれに移されるためである。

 さて,彼はこの世を裁くために再びお出でになるまで天にいますとはいえ,たといそうであっても − 御霊の隠れた計り知れない働きによって −主の体と血の本質によって主がわれわれを養い生かしたもうと信じる。

 晩餐の効果を真の臨在を空想または観念と取り替えるためではないが,その神秘はその大きさにおいてわれわれ人間の能力と自然の一切の秩序を遥かに凌駕するという理由から,それは霊的になされなければならないと強く主張する。要するに,それは天的なことであるから,われわれはそれは信仰による以外に把握しえないと考える。

37.礼典の効力

 われわれは信じる − われわれはそれをすでに述べた − 洗礼と同様に晩餐においても神はそこに現れていることを実際にまた効果的にわれわれに示されると。われわれはそこでわれわれに提供されているものを真に所有し享受することができる。そういうわけでキリストの聖なる食卓に純粋な信仰を携えて来る者はすべて真に − いっぱいに満ちている水がめのように −しるしが保証していることを受ける.すなわち,それはイエス・キリストの体と血は、パンとぶどう酒がわれわれの体に役立つのと同じように、魂の食べ物飲み物として役立つというのである。

38.礼典の必要性

 われわれはしたがって,一方では洗礼の水は全く腐敗の要素を留めているが,実際にはイエス・キリストの血と聖霊の力によってわれわれの魂の内的聖めをわれわれに証明し続けてやまないと強く断言する。他方,われわれが聖餐において与えられるパンとぶどう酒は霊的に養うことに真に役立つものである.なぜなら、それらは肉眼で見るようにイエス・キリストの肉は食物であり、血は飲み物であることをわれわれに指し示すからである。

 それゆえに,われわれはイエス・キリストが明言しておられること,すなわち「これは私の身体であり,この杯は私の血である」というみ言葉に鑑みて、これらのしるしと印章を受け入れることを欲しない妄想的な思考と典礼主義者たちには反対する。

[.公的権力

39.政府の必要性

 神は、この世の無秩序な欲望を抑制するために,何らかの歯止めとなるものを置き、この世が法律と政府によって治められることを欲しておられるとわれわれは信じる。それゆえに神は王国,共和国そして世襲的であれ,どうであれ他の公国の類のすべて、また正義の政体に属するすべてのものを立てられ、神がそれらの設立者であると認められることを欲しておられるとわれわれは信じる。

官憲

 このために神は,ただ神の戒めの第二の板に対してのみならず,第一の板に対しても犯される罪を抑制するために官憲の手に剣を委ねられた。

権威を持つ者に払うべき尊敬

 それゆえに人々は、神のために官憲が自らの任務を遂行することを支持するのみならず,神が彼らを合法的で聖なる任務を行使するために立てたもうた神の代理人,官吏のように考えて、彼らを心からの尊敬しなければならない。

40.官憲への服従の義務

 それゆえに,われわれは官憲が異教徒であっても,神の主権が損なわれない限りは法律と条例に従い,個人税,国税,その他の税を納め,善意と正直をもって服従することに同意しなければならないと主張する。

 こういうわけで、われわれは、すべての制度を拒否し財産の共有化ならびに財産に混乱をもたらし、正義の秩序を転覆することを望む者たちを排斥する。


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