改革派信仰とは何か(3)


3「信仰告白(信条)と聖書的徹底化

−Coram Deo (神の前に)の信仰告白的側面」

 それじゃお疲れかとも思いますが、後半をお話します。
 第一のことは、コーラム・デオ、神の前に生きるということでした。第二の事は、その神の前に生きるという場合の規範性、つまり、聖書的な規範性というもの、信仰の生活の規準としての聖書の絶対的な位置ということについてお話をしたんです。
 三番目は、レジュメに「信仰告白の聖書的徹底化…コーラム・デオの信仰告白的側面」というふうに書いてあります。これはどういう事でしょうか。これはこういう事です。先程言いましたように、聖書というものがありまして、そしてその規範の中に私たちがいまして、そして神様の前に生きるということを考えるわけです。けれども、そのときに「神様の前に生きるんだ」と、そしてそれで聖書の支配の下で生きるんだと言いましても、それだけじゃちょっと足りないんです。どういうふうに聖書というものを理解するのかということをはっきりさせない限りは、意味を持たないんです。例えば皆さんが、イエス様がペテロに対しておっしゃったことを思い出して下さるといいと思うんですね。イエス・キリストは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っているか」。で、ペテロは弟子たちを代表して「あなたこそ生ける神の子キリスト」と、こう告白しました。そうするとイエス様はその上に教会を立てるとおっしゃいました。教会は聖書の上に立つんだと、どの教派だって言っているわけです。でも聖書の上に立つと言ってもどういうふうに聖書を理解してその聖書の上に立つかと言う事を言わない限りは、それは曖昧模糊としているわけです。

 例えば、「聖書に立つ」と、こう言ってても、わたしは聖書の信仰義認ということの上に立つんだ、そのことが重要なんだ、と言って立ってたとしたら、片一方は、いやいや伝道のことなんだ、ということ言ってたらですね、同じく聖書の上に立つとしたって全然バランスがおかしくなってきますね。そうすると、聖書の上に立って神様の前に生きるんだと言うならば、どういうふうに聖書の真理というものを信ずるのかということを明らかにしてこの様に聖書の真理を信じますから、この上に教会を立てるんですよ、これを規準として教会を立てるんですよということを言わない限りは、これはまったく曖昧なことになってしまうんですね。難しいことを言うとそういう事ですが、優しい言葉で言えば、皆さんこういう事を考えて下さったらいいんですね。例えば、カルヴァンのジュネーブ教会信仰問答があります。これの第一問は「人生の主な目的はなんですか」という質問ですね。その第一問の答えは「神を知ることであります」、とこう言っています。人生の主な目的は神を知ることです。神を知ること、つまり私たちが信ずる、信ずると言ってもどういうふうに神を知って信ずるのかという事をいわないと駄目です。だから、皆さんは当たり前のように三位一体の神様を信じますとかね、イエス様のあがないの死を信じますとかね、そういうふうに言っているわけですね。言っているんだけどそれは実際は聖書からこういうように神様とその御業というものを私たちは信ずるんだというふうに告白しているわけですよね。だから信ずるというときには、神様を知るというのは物凄く大事なことですね。神様がどういうお方かということを知らなければ信ずると言っててもそれは全然内容のない事柄なんです。

 そうするとどうしても聖書から神様をどういうふうに知っているのかという事を明らかにしなければならない。神知識を明らかにして、そうすることの中で、例えば三位一体の神様をこういうふうに聖書から信じます、と、神様の創造についてはこういうふうに信じます、また、罪についてはこういうふうに信じます。罪からのあがないについてはこういうふうに信じます、といって、そうするときに初めて信ずるという行為は責任のある行為になるんです。ですから教会とにとって信条とか信仰告白とか、教理ということはとても大切なんです。そうでしょう。もし皆さんがそういう問題がまだよくわからなきゃ、もっと具体的に考えたらいいんですね。例えば、私たちの教会は信仰告白を持っているわけですね。ウェストミンスター信仰告白とか持ってるでしょ。そういう物全然なしに、「はい私たちの教会は聖書に立ってます」とこう言ったとしますね。で、一人の牧師は聖書の教えをこうだと教えますね、で、皆さんそう信じますね。次の牧師さんがきます。全然違ったことを教えたとしますね。「聖書に立って」とやはり言うんですよ。どうするんですか、皆さん。つまり牧師さんによって全くこんがらがっちゃうという事が起こるんです。「私は聖書の全体性」なんてこう言っているけど、次の牧師さんは「いやそんな事はない、伝道だけです」と、次の牧師さんは、もう他のことはよろしい、とにかく全ききよめが大切です」ということだけ、それしか教えてくれなかったら教会というのはくるんくるんと目が回って変になっちゃうんです。お分かりになると思うんですね。そうすると、そういうことじゃなくて、私たちの教会は聖書を信じます、で、聖書を信じますけれども、その聖書をこのように信じますということを明らかにする。そうするとそのことにのっかって私も語る。次の牧師さんが来てもそのことを土台にして語りますから牧師が交替したとしても、その教会はきちんと神様の真理の上に立つことになるんです。これが信仰告白ということの大切な意味です。皆さん個人、個人の場合だって同じです。私は聖書を信じます、聖書を信じますと。教理とか、そんなものの勉強はいりませんと言ったらこれ大変なことになるんです。じゃ、あなたは聖書を信じると言うんですけど、どういうふうに信じているんですか。そうするともう、しどろもどろになって自分の信じている内容を語ることができない、ということになりますね。そうすると、よく考えてみたらそれは他の日本の宗教とあまり変わらないような形で信じている場合だって起こりうるんですね。あるいは非常に異端的に信じている場合だって起こりうるんです。ですから私たちが聖書を信じて神様の前に生きるんだといったときも、聖書から正しく神様を知り、告白するということがなければ本当の信仰生活というものは生まれてこないんです。だから教会の信条が大事だとか、あるいは教理が大事だとか、ちゃんと聖書の真理とか教理の勉強をしなければならないという理由があるんです。改革派はそういう勉強ばかりやって頭だけで信仰生活は駄目じゃないかという批判があるんですね。たしかにそれは私たちが反省しなければならないことなんですけれども、でもそれはだからといって、じゃ、もう神学なんかどうでもいい、教理なんかどうでもいい、勉強なんかしてもあんなものは頭でっかちになるだけだ、というような、これは嘘ですよ。そんなことしてれば私たちの信仰は出鱈目になっちゃうんです。一番いい例が、私たちは、信ずるというけど、何を信ずるか、ということを言わなければ信ずる意味無いですね。ここが日本人の信仰とキリスト教信仰が違う点なんです。日本人の信仰にとっては何を信ずるか、はっきりさせなくたっていいんです。信ずる心が大事なんです。信心が大事なんです。だからべつに伊勢神宮へ行こうが、明治神宮へ行こうがどこへ行こうが関係ないんです。相手のことは余り関係ないでしょ。だけど、私たちクリスチャンにとってはそうじゃないでしょ。自分の信ずる心よりも何を信ずるのかということですね。英語がお分かりになるならI believe だけじゃだめで、I believe in何々. なのであって、何を信ずるのかという事を言わなければbelieve という、信ずるという言葉だけでは意味を持たないわけです。だから私たちも教会では聖書を信じます、だけじゃだめなんで、聖書からどういう神様を信じているかという事を明らかにしなければはっきりしない。個人においてもそうです。ただ信じているというだけで、私は厚く神様を信じている、だけではだめなんで、どういう神を信じているのかという事をはっきりさせなければならない。それがここで二番目に出てくる信仰告白とか、あるいは信条とか、あるいは神学という難しい言葉を使ってもいい、神学というのは神についての知識ですからね、これが改革派でそういうことが大切だという理由なんです。


 ただ注意してほしいことは、聖書というものから私たちは今こういうふうに信じているといいますね。でも、そういうふうに信じているといっても、例えば私たちはウェストミンスター信条をもっているんですけれども人間がこういうふうに信ずると言うんだから誤りがありうるんですね。これは大事な点なんです。私たちに言いうることはこうでしょ、どういう神様を信じていますか、と聞かれたら私たちは聖書からこういうふうに神様を信じています、救いをこういうふうに理解しています。しかしそれで言いうることは現在の時点でベストの知識において私たちはこういうふうに信じている、としか言い様がないんです。私たちは神様じゃないんですから。それは教会だって一緒なんです。例えばウェストミンスター信条を信じている、ハイデルベルグ信仰問答を使っている。これは聖書からこういうふうに私たちは信じていると言うんだけれども、それは神の言葉ではないんです。つまり信条は絶えず聖書によってより聖書的なものとして改革されつづける必要があるのです。従って、聖書が「絶対的基準」といわれるのに対して、信条は「相対的基準」と言われるんです。つまり聖書という絶対的基準によって絶えずより正しい信仰告白というものを作り出していって、そしてより正しい土台の上に教会を建て上げ、そして私たちの信仰も建て上げて行くということです。ですからここにエクレシア・センペル・リフォルマンダ、絶えず改革され続ける教会という点が明らかになっています。皆さん、こういう事を考えて下さればいいんです。ルター派の信条を見ますと、一五七七年和協信条が出来てから、それからルター派はもう信仰告白は一切作ってないんです。それで終わったんです。ところが改革派は世界中至る所で自分たちの信仰告白を作ったんです。それから時代がたてばまた新しい信仰告白を作るんです。なぜそういう性格が出てくるのか、それは先程言いましたように聖書によって絶えずより正しい信仰告白を作ろうとするからです。


 だからこういう事でしょう。もう一遍原点に帰って考えてみましょう。私たちが神様の前に生きる、コーラム・デオに生きると、じゃそれは聖書の規範のもとに生きるんだ。聖書の規範に基づいて神の前に正しく生きようとすると、より正しい信仰告白をすることにおいて、より神様の前に正しく、より良く生きるという事が可能になるんです。非常に簡単に考えてください。もし私たちが聖書を信ずる、神様を信じると言っても、神様を出鱈目に信じたらどんなに熱心であってもそれは本当に神の前に生きるということにならないんです。そうでしょ。どんなに熱心に信じていても、間違って神を信じていたらそれは神の前に生きることにはならないんです。だから熱心であればある程私たちは正しく神を知ることによって神の前に生きるということをしなければならないんです。ですから信仰告白が大事だとか、教理がたいせつだとか、神学が大切だとか言う理由があるんです。それは神の前に生きるという事のために必要なんです。ところがこの場合も私がお話したいのは、コーラム・デオという事の大切さです。皆さん恐らく改革派で教理が大事だとか、信条が大切だという事は聞いてきたと思うんです。でもその事ばかり教えられると一所懸命勉強するんですが、なぜそうなのかという事がわからなくなっちゃうんです。なぜ私たちは教理を勉強しなければならないか、なぜ私たちは信条を大事にしなければならないか。しかしそれらの一番根本にあるのは私たちが神の前に生きるという事のためなんです。より正しく、より良く神の前に生きるためなんです。例えばウェストミンスター信仰告白を見てくださると、いろんな事が出てくるんですよ。三位一体のことも出てくる。イエス・キリストのことも出てくる。結婚の問題とか、断食の問題、国家的為政者の問題とか、安息日のすごしかたの問題とか、社会生活の問題まで、一杯出てくるんです。信仰告白の中に。で、みなさんが例えばルター派の信条を見てくださると、今度は信仰義認のことが物凄くたくさん出てくるんです。つまり、聖書というものを私たちが告白するときに、できる限り聖書的全体の真理というものを正しく告白しようとするんです。そうするとできるだけ正しく神様の前に生きるという事をあらゆる分野で、結婚生活においても社会生活においても、政治の生活においてもそれを生きようとすることが起こるわけです。だから改革派の信仰告白ではそうなるんです。聖書の真理の全体をできる限り信仰告白に反映させようとすることが起こる、これ、改革派の特徴なんです。だから改革派の人達は昔から社会的に活発な活動をしたという理由があるんですね。政治的にも非常に積極的に参与してきました。それから文化や芸術でも非常に積極的だったという事はこういうことからも考えられる。信仰告白というものを単なる宗教的なことだけに狭めないんです。広い領域で信仰を告白するんです。なぜなら聖書の真理というものの全体性というものを正しく告白しようとするからです。だから信仰告白というものがそういう広がりを持った信仰告白になるんです。そうするとそのことによって私たちが神の前に生きるという事の全体性というものがそこに現れてくるということ、こういうことなんです。


 レジュメを見てくださると、一が「神の前に生きる」ことと信仰告白の重要性。いくら神の前に生きるといってもそれは信仰の告白という事がきちんとされなければ、本当に神の前に生きるということにならないということ。それからルター派との差。ルター派の場合は一五七七年で信条の生産が終わったのに対して、改革派は、より聖書的な信仰告白というものを絶えず追及するという姿勢を持っているということ。日本キリスト改革派の場合もウェストミンスター信条を持っていますけれども、もっと優れた自分たちの信条というものを作ろうとする、やっぱり私たちはその目的を持っているわけです。それから、コーラム・デオと信仰告白に関連してジュネーブ信仰問答を取り上げてお話しました。さらに、その後のところで、神学の重視、神を知ることの聖書的な徹底化。さらに、ルター研究者の有名なカール・ホルがこういうことを言ったんです。「カルヴィニストは自分が何を信じ、なぜ信じているのかということをよく知っている」。これは改革派信仰のことをよく表現しているんです。改革派の人は、自分が信じていることは何なのか、なぜ信じているのかということをよく知っていると言うんです。これは重要なことです。皆さんいろんなクリスチャンに聞いてごらんなさい。「私は熱心だ」、と言う。じゃ、どういうふうに信じているんですか。なぜ信じているのですか、ということを丁寧に説明しろ、と言われたら、なかなか、これ難しいんですね。曖昧なことをおっしゃるんですね。信じている気持ちはそうなんだけれど。私たち改革派の者にとってはどういうことを信じているのか、イエス・キリストの御業をどういうふうに信じているのか、終末をどういうふうに信じているのか、教会ということについてはどういうふうに理解しているのか、ちゃんと説明できなければならないんですね。なぜそうなのかと。私たちが神の前に生きるということは、本当に責任のあることなのです。神様の前に、私は神様をこういうふうに信じているんですよ、ということをきちんと言えなければならないんです。そうでなければ神の前に生きるということにはならないんです。そういうふうにして私たちが神学ということをとらえるならば、私たちの神学の勉強というのは敬虔というものとしっかりと結び付くんですね。敬虔な生活というものと必ず結び付くんですよ。有名な改革派の神学者に、エイムズという人がいるんです。ラテン語読みではアメシウスといいます。ピューリタンの人で、オランダに亡命して、この人の書物がアメリカに移りまして、アメリカのキリスト教に非常に影響を与えたのです。その人の神学についての有名な定義というのがあるんですね。それはどういう定義かというとですね。テオロギア・エスト・ドクトリナ・デオ・ビベンディとラテン語でいうんです。それはどういうことかというと、「神学というのは、神のために生きるための教理だ」という意味です。ということは何かというと、コーラム・デオということと教理というものは結び付いているという意味なんです。神の前に本当に生きようとするなら、神を正しく知るという教理なしには生きることはできないんです。それなしに神の前に生きるという時にはそれは非常に異教的でありうるんです。そのように教理と、いま言った神の前に生きるということは結び付いていることなんです。


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