改革派信仰とは何か(2)


2「信仰と生活の規準としての聖書の絶対的位置

ーCoram Deo (神の前に)の絶対的規範」
 

 今度は本論の2のほうに移ります。
 以上のことをまず皆さんの念頭において話しを続けて聞いていただきたいのですが、今申し上げました大前提に行きつ戻りつ話しをしたいと思います。
 昨日も山本さんから質問されて、「ルター派はルター派というんですけど、改革派はカルヴァン派とはいわないんですね」とおっしゃったんですが、まったくその通りなんです。改革派とかルター派という言い方が定着したのは大体十七世紀、つまり、ほぼ改革派とかルター派という、ある固定した一つのキリスト教の流れというものが出来てきた時にこの名前が定まったんです。十七世紀です。それが定まるにはいろいろ事情を話さなければなりませんけれども、それを話していればまた長くなりますから結論だけ言うなら、とにかく十七世紀の時に一方は改革派、一方はルター派という名前がついたんです。だからやはり改革派は世界中どこでもカルヴァン派とは絶対言わないんです。世界中どこに行ってもそうは言わない。大陸のほうは大体改革派です。それから、英米系のほうはプレズビテリアンチャーチ、長老教会と、こう言います。長老教会という名称は、改革派の政治形態を長老主義といいますので、その角度から長老教会と呼ばれるようになったのです。で、改革派というのはむしろ信仰のありかたというものをとらえたときに改革派信仰、改革派教会という名前をつけているわけです。いづれにしてもカルヴァン派という名前はつけません。これは大変象徴的な事なんです。

 どうして、じゃ改革派はカルヴァン派と言わなかったかというと、私たちはカルヴァンという人を凄い人だと言って自分達の教派を作っているわけではないんです。そうじゃなくて、カルヴァンという人が持っていた考え方、それはどういう考え方かというと、カルヴァンという人は、神様のみ言葉によって改革された、そして改革し続ける教会こそが本当にキリストの教会だと主張したんです。その考え方を私たちは本当に正しいと判断しているわけです。ですからカルヴァンはカルヴァン派という名前を付ける事を絶対認めなかったのです。有名な話しがございます。実はカルヴァンのお墓は分からないわけです。自分のお墓を作ると皆カルヴァン先生を拝み出すということを彼は恐れたんです。自分じゃなくて神様を皆が見つめてくれることを要求したものですから自分のお墓の墓石を作ることを許さなかったんです。だから、どこにお墓があるか今日も分からないんです。それは非常に象徴的な事であって、改革派というのはカルヴァンという名前じゃなくて、やはり改革派なのです。日本語だと大変困るんですね。以前の事ですが、看板屋さんに行って、「この『改革派』ちゅう名前を看板に付けて書いてください、」と言ったら「お客さん、それつけん方がいいんじゃないですか。」と言うのです。なぜかと言うと、改革派という名前だとやっぱり、何と言うか、革命をやるような、激しい戦闘部隊の、キリスト教のいわば赤軍派のような感じをいだかせるわけです。ですから、必ずしも改革派という名前が日本ではピタッと一般的に理解されないかもしれないんです。でももともとの意味はそうじゃなくて、エクレシア・センペル・リフォルマンダという言葉があるんです。センペルというのは「絶えず」という意味です。リフォルマンダというのは「改革し続ける」という意味です。“絶えず改革し続けるエクレシア、教会”これが改革派の意味なんです。神様のみ言葉によって、あの宗教改革の時に改革された、そして神のみ言葉によって絶えず改革され続ける教会というのが改革派ということの意味なんです。


 例えばルター派出身の方がこの中にいらっしゃるから良く分かると思うのですが、ルター派の信条の中には、必ずルターの小教理問答というのがあるわけです。ところが改革派で、例えばカルヴァンの作ったジュネーブ信仰問答を自分達の教会の信条に採用している教会はないんです。私たちも改革派といっているけれど、カルヴァンの作ったジュネーブ教会信仰問答を私たちの信仰規準にはしていないんです。ウェストミンスター信仰基準、ウェストミンスター小教理問答とかありますけど、あれはカルヴァンの作ったものではないんです。ルター派はルターが作った小教理問答を非常に大事なものとして世界中の教会がそれを持っています。それが一つの象徴的な事実であって、改革派だったらもっと聖書的に良い教理問答ができればそれが採用されます。つまり改革派というのは神様の言葉によって絶えず改革し続けるという事が一番の精神なんです。だから改革派というふうに言うんです。
 それによって僕が言いたいもう一つのことは、その改革派という名前が示しているように、改革派においては聖書というものについてのこだわりが大変強いということなんです。こんな事を言うと皆さん多分奇妙に思われるでしょう。「改革派だけが聖書のこだわりが強い、といったって、そんなことないよ。どこの教派だってプロテスタントは聖書をみな大事にしているのだからこだわりは強いはずだ。どうして改革派だけそんなことを言うんだ。」もちろんプロテスタントはみな「聖書のみ」ということを言うんです。そういうふうに言うんですけれど、でもその度合いなんです。あるいは、その言葉に対する執念、まあ、執念と言うとちょっと悪いイメージですけど、いわば強弱の問題であり、強調点の問題なんです。改革派というのは、やはり「聖書によってたえず改革し続ける」と言っているように、聖書についてのこだわりが凄く強い教派です。
 宗教改革には二つの原理があります。一つは形式原理と言います。これは「聖書のみ」ということです。二番目は内容原理と言います。こちらは何かというと、信仰のみということですが、信仰によって義とされる、信仰義認ですね。カトリックのように善き行いによって救われるのではなくて、功績によって救われるのではなくて、信仰によってだけ義とされる、という信仰義認ということがある、それを内容原理と、こう言うんです。これはすべてのプロテスタントの、宗教改革の時代の共通の原理なんです。こういう易しい問題が牧師試験に出てくるんです。これもできない人もいるんですけど(笑)。
 さて、ルター派の人達はどちらが一番重要かというと、それは何と言っても信仰によってだけ義とされるということです。それは当然でしょう。ルターという人は修道院で自分の罪に悩み、そして激しい葛藤の中で改心してイエス・キリストを信じることによってのみ義とされるんだ、そういう救いを発見したんです。ルター派の教えの場合には終始それを巡る問題です。信仰によってのみ義とされるということ、いわばそれが支点になって全てのことが巡り歩く思想なんです。そしてこれは大事なことなんですよ、改革派にとっても。でも、ルター派にとってはこれが、全部が支えられるいわばピボットというか、支点なんです。


 もちろんルター派の人達も聖書のみということは言います。ところが、こういう問題が起こるんです。例えばここに聖書があるでしょう、そして「私はどうしたら救われるだろうか。罪人である私はどうしたら救われるだろうか」と言って、「それは信仰義認だ」とこうなります。ところがこのとき、問題が起こるんです。聖書を読むとき「信仰によって義とされる」という、そこだけがポイントになって読まれますから、聖書の中でどうしても信仰による義ということだけが強調して読まれてしまうという事が起こるんです。当然ですね。皆さんご存じですか。ルターは、例えばヤコブ書を「藁(ワラ)の書簡だ」、ちょっと価値が低いと考えていたんです。おかしな事ですね。彼は「聖書は神の言葉だ」と言いながら、どうして聖書の中に、パウロなんかのガラテヤ書やローマ書はいいんだけれど、ヤコブ書なんてのは藁の書簡だ、どうもレベルの低い書簡だ、と。どうしてなのか。その理由はここにあるんです。つまりヤコブ書というのは人間の信仰と行為のうちの行為のほうが書いてある。信仰によって義とされるということについてはそこにははっきりと表れていないように見えるんです。だからそこから判断するときに、その書物だけは聖書の中でちょっと後退した位置に置かれてしまうのです。


 例えば一つの例を挙げてみましょう。この問題は現在でも大きな問題です。例えばルター派の大聖書学者のエルンスト・ケーゼマンという人がいますが、この人は面白いことに、「聖書の中の聖書、経典の中の経典」ということを主張します。それはどういうことかというと、聖書があるけれども、その中でもこれこそ聖書といわれるべきものは何かというと、信仰義認を言い表している書物が、聖書の中の聖書だと、現在でも言うんです。そうするとどういう事になりますか。じゃ信仰義認を反映しているものがどの書物かということを判断するのは誰かというと、結局人間なわけです。そうすると聖書の権威というものについての客観的権威がどうしても後退化してくるというのがお分かりになると思うんです。先程いいましたように絶えず改革し続けるということは聖書に対するこだわりが凄く強いということです。ですから改革派はむしろルター派が信仰義認といういうふうに流れて行くのに対して、改革派はもちろんそれを少しもゆるがせにしないのですが、より強い調子で聖書のみということを主張すると言いうるんです。


 もう一遍ここでコーラム・デオの事を考えていただきたいと思うのです。いったい神の前に生きるとこう言うんですが、じゃ神の前に生きるためには、どういうふうに神の前に生きるということを知ったらいいのか、ということなんです。例えば極端な事を言うと、聖書をほっぽり投げておいて「私は神の前に生きる」と言ったって全然出来ないんです。神の前に生きるということは私たちが神というお方がどういうお方なのか、神様の前に生きるとはどういう歩み方なのかという事を聖書によって知らない限りはできないんです。だから神の前に生きるという事を私たちが強調すれば強調するほど聖書というものによって私たちが神を信じるというのはどういう事なのか、生きるというのはどういう事なのか、ということを知らなければならない。レジュメを見ていただくと「信仰生活の規準としての聖書の絶対的な位置ーコーラム・デオの絶対的規範」とこう書いてありますね。私たちがコーラム・デオ、神の前に生きる場合に、何がその場合の規範になるかというと、聖書のみです。ですから、聖書というものが、コーラム・デオということの規範的意味を持つわけです。


 どうして「神の前に生きる」ということから出発して「聖書の規範性」ということを言うのかというと、こういう事なんです。改革派の人の欠点に、私自身もコーラム・デオというスローガンを作ったんですけど、大体スローガンをかかげすぎる点があります。面白い事にオランダのスキルダーという人の本に「改革派はスローガンばっかり言っている。会議ばかりやっている。わたしはこんなもの嫌いだよ。」と書いているんです。つまり昔からやっぱり改革派はスローガンが好きで会議が好きなんです。これ問題なんですよ。そのスローガンという場合には、たいてい私たち改革派は「聖書は唯一絶対の神の言葉であり、信仰と生活の規準として信ずるんだ」、とみんな言うんです。これは百パーセント正しいんです。でも私たちが聖書の絶対的権威ということを言うのは、単なるスローガンじゃないんです。そうじゃなくて、「神の前に生きる」ということの関係で初めて聖書の絶対的規範性というものが意味を持つのです。私がコーラム・デオの概念から出発するという事はそういうことなんです。聖書は神の言葉だ、神の言葉だと言ったってそれは何の意味も持たないんです。お題目をとなえているだけなんです。そうじゃなくて、「生ける神の前に生きる」ということの中で、その生きるということの規範は一体何なのかというと、聖書によってしか神を知ることはできないし、その生き方を探ることはできないんで、だから聖書のみが唯一の絶対的規準ということになるんです。


 そしてその場合、昨日ちょうど北海道聖書学院で少しこのことをお話したんですが、聖書のみというとき、改革派が言った事にもう一つのことがあるんです。それは、こういう事なんです。これ大事なことですから、これもよく牧師の試験に出るんですけれども、これも出来ないんです。本当なんですよ。情けない話ですけど(笑)。「聖書のみ」という原理とともに、もう一つ、「聖書全体」という原理があるんです。これはちょっとレジュメに書かなかった事なんですけど。ソーラ・スクリプトゥーラ。これは「聖書のみ」です。もう一つは「聖書全体」、スクリプトゥーラ・トータ、聖書をトータルな意味でということですね。聖書の全体性。この二つによって改革派の場合の聖書原理という事が言われるのです。
 これはどういう事かといいますと例えば、聖書のみと言ったとしますね、でも聖書の中の信仰の義認ということだけ強調するとなると、これは聖書全体にならないんです。聖書の中には信仰の義認だけしか書いてないんですか。そうじゃなくて聖化されることも書いてありますね。伝道の事も書いてありますね。あるいは分派のことも書いてありますね。つまり聖書の真理にはいろんなものがあるわけです。そうでしょ。罪のことだけじゃないんです。罪からの救いも書いてあります。それから罪のなかったときの人間の姿とかいろいろ書いてあるんです。終末のことも書いてあれば創造のことも書いてあるんですね。つまり聖書のみという事は聖書の全体的な真理というものを大切にするという事がなければ聖書のみとは言えないわけです。例えば皆さんが私の言葉を聞いて大切にするといいますね。だけど私の言っている事の全体を聞いてなくて、一つの部分だけ、ああ、案外教師試験は易しい問題だとか、これは牧師さんも分からなかったとかいう事だけを、もし聞いたとしますね。そして「聞きました」と言う。しかし、これはぜんぜん私の話を聞いてない事になります。つまり聖書のみということを言うなら、聖書の教えている事柄をちゃんとバランス良く全体を聞かなければ聖書を信ずるということにはならないわけです。


 だから、これは大事な事なんですけれども、ルター派の場合、信仰義認ということだけ言うならば、確かにヤコブ書の行為の問題が出てくると信仰義認は後ろのほうへ行ってしまっているように見えるのです。でも聖書を見ると本当はそうじゃなくて、信ずるということと同時に、信じて行うという事が同じように大切な事として書いてあります。要するに両方とも正しく教えなければならないし、信じなければならないんです。ところが信仰の義認のところだけをとってしまう、そうすると、聖書のみとはいうけれど、聖書を本当に重んじていることにはならないんです。この「聖書全体」ということの根拠は、使徒行伝二十章のところで、二十章の二十七節ですが、パウロが説教したときに、「私は神のみ旨全体を余すところなくあなた方に伝えた」と言うんですね。「神のみ旨を余すところなくあなた方に伝えた」つまり神様のみ旨の全体をあなた方に余すところなく伝えたと言うんです。だから改革派はその意味で「聖書のみ」と言うときには必ず「聖書全体」ということを直ちに言うんです。そうしないと聖書を信ずるといっても、本当の意味で聖書が規範的な意味を持つということにはならないんです。


 おそらく他の教派から来た方はすぐ感じられると思うんです。ある教会に行くと、もう、伝道の事ばかりしか話さないんです。五十二回、日曜日になると毎回伝道と霊の救いの事しか話さない。またある所に行くと、きよめの事しか言わない。罪を指摘することばかりしか話さない。そういう極端な事しか言わない。勿論、これはみんな全部神様の真理なんですよ。でも、じゃ聖書全体はその事だけしか書いてないのかということなのです。そのようにそこだけ強調されるとなると結局はその信仰生活は非常にいびつなものになってしまうのです。だから先程私は言ったのです。神の前に生きるという点を主張するのはどのキリスト教も一緒なんです。でも、神の前に生きるということをただ伝道ということだけでとどめてしまうのか、或いは清めということだけでとどめてしまうのか。ある教派は異言を語るということだけでとどめてしまうのか。まあ異言を語るというのはこれは間違いですけれど。神の前に生きるということは、伝道のことにおいても聖化の事においても、社会的な生活においても、全てのことにおいて聖書が教えている広がりの中で全体的な真理を良く聞き取り、神の前に生きるということなんです。だから聖書の全体性ということを言わなければならないんです。
 カルヴィニズム、改革派信仰は神の前に生きるという事の全体性、だと言っているわけです。人生の全体において神の前に生きるということ。考えること、思うこと、行為することの全体において、祈りにおいてとった態度を神の前に貫く事。ということはどういう事かというと、神様のみ言葉の真理というものの全体性の中で私たちの信仰の生活の全体が規定されて、その規定の下で神の前に生きるということです。これがいわば改革派信仰の大事なポイントになるんです。


 いま、原稿を見ずにしゃべっていましたら抜けているところがあることに気が付きました。少し付け加えておきます。前後しますが、レジュメの3のところに「信条史におけるルター派と改革派の聖書論の扱いの相違」と書いてありますね。それはこういう事なんです。ルター派の信条集というのは聖文社から「一致信条書」という厚い本が出ています。皆さんがその本のなかで聖書について書いてある所をずっとお調べになったらいいんです。そうするとルター派において聖書というものが特別な項目で扱われるのは一五七七年の和協信条においてわずかに出てくるだけです。ところが皆さんが例えばウェストミンスター信仰告白を見て下さると、第一番目に聖書の事が出てきますね。多くの改革派諸信条においては、聖書の事が一番最初に一つの独立した項目で出てきます。こういう現象はルター派の信条にはないんです。そうするとそこに微妙な差があることがお分かりになると思うんです。それだけ改革派というのはやはり聖書というものへのこだわりが非常に強いんです。
 それからレジュメの4の所で「Coram Deo のモティーフの喪失と聖書信仰の空洞化」と書いてあるのは、先程言った通り、改革派が聖書信仰ということをすごく言うんですが、だけどそれはスローガンに終わってしまう可能性がある、ということを指摘したいのです。そうじゃなくて、コーラム・デオという事をまず考えてそのコーラム・デオ、神の前に生きるということの規範としての聖書の絶対的な権威ということを考える方が事柄を正しく把握することができるという事を言いたいのです。
 そして、その二番目「コーラム・デオと聖書の絶対的規範性の結合」ということは、どういう事かと言うと、こういう事になります。聖書という規範によって神の前に生きるということは、改革派の場合絶えず神の言葉によって改革され続けるということを意味しますから、聖書の全体的な真理の中で自分自身の生活というものが絶えず検証されなければならないということになるわけです。ということは、本当は改革派信仰ほど悔い改めが起こらなければならない信仰はないんです。お分かりになるでしょ。どの教派よりも本当は改革派というのは悔い改めがなされる教派なんです。なぜかといったら、聖書の絶対的規範性を重んじて、その聖書の持っている全体的な真理性の中で自分というものが絶えず改革され続けると言うんですから。絶えず自己自身というものが聖書の前に批判にさらされて、悔い改めるということが起こらなければならないからです。ですから有名なカルヴァンのキリスト教綱要のキリスト者の生活というところに何と書いてあるかというと、「絶えざる自己否定」と書いてあるんです。それは当然のことなんです。神の言葉によって絶えざる自己否定というかたちで信仰の生活が規定されている、それはそういう理由なんですね。それが二番目のところですね。
 これで四十五分来ましたからちょっとスピードが遅いんですけれども、ちょっとそれじゃここで休みましょうか。


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