使徒信条その告白的講解(6) 岩永隆至 六、その独り子 使徒信条が、「我は、イエス・キリストを信ず」と告白するとき、その信仰の対象は、「父の独り子」である。マリアから生まれた一人の人間、ナザレ人として生きられたイエス、このお方をキリストと信じるのは、神の独り子であられるからである。使徒信条第一項の父なる神は、実にその独り子の父である。そして、この独り子は、単に言葉においてのみでなく、その人格と存在と恵みと救いのみ業において、父なる神をわれわれに決定的に啓示しておられる(ヘブライ一1〜3)。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ一18)。 しかし、文字によるこのような精密な表現は別にしても、使徒信条の原型、古ローマ信条の時点から確立されていた三位一体論的枠組みが、復活者イエスの洗礼命令(マタイ二八19)に依拠していることを考えると、イエス・キリストを父の独り子と告白し、真の神と信じる信仰内容は、異端論争の結果生み出された神学的表現を待たずして、すでに古くより信じられ、教会歴史の最初から告白されていたものと断言してよい。そしてまた、四世紀初めのニケア信条の内容は、すでに紀元一世紀に書き終えられていた聖書に基づくものであることを覚えるなら、使徒信条の「その独り子」を、ニケア信条の表現で告白するのに異議をはさむ必然性は全くない。ニケア以前から、否、使徒時代から、御子を真の神と崇める信仰はすでに有ったからである。 「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方」(コロサイ一15)。「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」(ヘブライ一3)。「御子こそ、真実の神」(Tヨハネ五20)。「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神」(ローマ九5)。肉となってわれわれの間に宿られた「言は神であった」(ヨハネ一14、1)。またイエス御自身語られた。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ一四1)、これは、父と同じ神としての信仰を自らに求めておられる発言である。次のようにも言われた。「わたしと父とは一つである」(一○30)。あのナザレ人イエスを神と信じることに疑いを持ちがちなわれわれも、復活されたキリストの御前に立つ時、「わたしの主、わたしの神よ」と心から告白できるのである(ヨハネ二○28)。 御父は御子でない。御子は御父ではない。そこには位格の違いがある。御子は永遠より御父の子である。従って、子として父に従順であられるお方である。そして、御子の完全神性論の主張は、御子として御父に全く服従して、罪あるわれわれの贖いを全うされた救いの御業に大きく関わる真理と不可分に関連している教理である。 イエスは最後の晩餐の席で父に祈られた。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(ヨハネ一七4)。このあとゲッセマネでも苦しみもだえながら祈られた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ二六39)。またパウロは記している。「キリストは、神の身分でありながら……自分を無にして、僕の身分となり……死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ二6〜8)。ヘブライ人への手紙は、「御自身を立てた方に忠実であった」お方として御子を語っている(三2)。 ここに紹介した御子としての御父への従順は、メシアとしてわれわれ罪人を救う御業を全うするためのものであった。しかもこの従順は、マリアから生まれ人となり地上に生を受けてから始められただけでない。天地が造られる前から父の求めに従い、贖い主となる道へと進むことを受け入れておられた(Tペトロ一20、エフェソ一4)。イエスが、苦悩の中で内から出てくる切なる願いを捨ててまで「御心のままに」と、父の求めに従い十字架の道へと心を定められたのは、すでに永遠から御子として父に従う者として在られたから、と読んでよい。こうして、神が、御自身のものであるお方すなわち御子の血によってご自分のものとされた神の教会(使徒二○28)を建てる御業に、子としての従順を持って参加されたのである。 復活されたイエスは、神を「わたしの父であり、あなたがたの父である方」(ヨハネ二○17)と語りながら、自らに与えられている神の子としての身分が、信仰者たちにも分け与えられていることを示された。使徒パウロも、「神は、その御子を……お遣わしになりました。……それは……わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラテヤ四4〜5)と記す。ハイデルベルク信仰問答は次のように告白する。「わたしたちも神の子であるのに、なぜこの方は神の『独り子』と呼ばれるのですか? なぜなら、キリストだけが永遠からの本来からの御子だからです。わたしたちはこの方のおかげで、恵みによって神の子とされているのです」(三三問)。 われわれは神の裁きによって怒りの子となり、聖前から遠ざけられて当然の罪人であるにもかかわらず、神の子として扱われ、御子の霊によって神を「アッバ父よ」と親しく呼びながら聖前に近づくことが許され、御国の世継ぎとされ、永遠の命の恵みに与る特権さえ与えられている。この祝福はただ、父の独り子を信じる信仰によって与えられたのである(ヨハネ一12)。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。……御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネ三16、18)。 さらにまた、神の独り子は、ご自分を信じる神の子たちを、兄弟と呼ぶことを恥とされない(ヘブライ二11)。だからわれわれも、神の子とされた他の聖徒たちを「主にある兄弟姉妹」と心から呼ぶ。それだけでなく、兄弟として互いに愛しうるよう育てられている。この愛の交わりの中に、アダムによって失われた人間関係の回復を見いだせる。しかも父なる神は、神の子たちに、互いの間の愛を命じておられる(Tヨハネ四7〜11)。そこでわれわれも、兄弟愛に生きるよう努める。父の独り子を信じる者として、口の言葉だけでなく、愛の実践をもって独り子を証ししたい。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ一三35)。神の独り子はこのように語っておられるので。 (せんげん台教会牧師) |