使徒信条 −その告白的講解 (1)   岩永隆至


使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

  主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、

  ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

  十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、

  三日目に死人のうちよりよみがへり、

  天にのぽり、全能の父なる神の右に座したまへり、

  かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん、

我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、

  罪のゆるし、身体のよみがへり、永遠の命を信ず。

(日本基督教団出版本『讃美歌21』より)


 

一、我は信ず

 「我は信ず」、これは使徒信条の冒頭の言葉である。

 この信条の起源は、キリスト教歴史の初期に属する古い時代にさかのぽる。しかもその内容は、今日の教会においても告白文としての価値と力を持っている。恐らく歴史が続く限り、従って地上の教会が存続する限り、この信条は全ての教会で尊ばれ、信仰告白文として用いられ、神学の核を把握するため、教義学の理路を確定するため、注目されるであろう。

 とはいえ、東方教会(ギリシア・カトリック、ロシア・カトリック)は西方教会(ローマ・カトリック、プロテスタント教会)ほどにはなじみがない。15世紀頃には、ほとんど知られていなかったようである。この信条はラテン語で書かれ、ラテン語の世界で、すなわち西方教会で広まり用いられてきたからだ。ですから全教会共通の信条とは、厳密には言えない。それでも、東方教会がその内容について異論をとなえるわけではないし、十分に同意しているとみてよい。というのは、ニケヤ信条(325年)に幾つかの手を加えてととのえられたニケヤ・コンスタンチノーブル信条(381年)は、ニケヤ信条に使徒信条を合わせたような内容となっており、東西両教会は、すなわち全ての公同教会は、これを受け入れているからである。

 4世紀に作成されたニケヤ・コンスタンチノーブル信条こそは、完全にエキュメニカルな全教会的公同信条である。5世紀のカルケドン信条は、ニケヤ信条の補足のような要素があるので、ニケヤ信条を採ることは、カルケドン信条も採ることになると言ってよい(ルーテル派の九つの信条にはカルケドン信条が入っていない。これは、カルケドン信条の内容を否定したわけでは決してない。だがニケヤ信条ほど積極的な受け入れ方をしているとはいえないのではなかろうか。それは、ルーテル派神学の属性交流論と無関係でないと思う)。

 「我は信ず」、これはラテン語でCredoクレドと書かれている。ここから、信条のことをクレド(英Creed)と表現しだした。けれども信条を表現する語は、より古くはシンボリウムSymbolumが用いられていた。使徒信条はSymbolum Apostolicumと記され、信条を表す語としては、クレドよりもシンボリウムの方が古くから用いられてきた。このシンボリウムは、ギリシャ語スンボロン(共に投げる)からきており、幾つかの信仰箇条を結び合わせるという意味を持つとも言われ、特にこれについてルフィヌス(400年頃)が、十二使徒たちによって一箇条ずつ持ち寄られて一つに結びあわされまとめられたものとする古くからの理解を紹介しているが、これは歴史的にはほとんど根拠がなく、伝説の域にとどまるに過ぎない。口ーマ・カトリック教会でさえ、今日この説には消極的である。

 シンボリウムとは、英語のシンポル、すなわち標識、象徴、旗印の意で、信仰の基本内容をコンパクトに定式化された表現で要約的にまとめて掲げた旗印のようなものである。この旗印のもとに信仰的同意者が集って、告白共同体としての教会を形成していくのである。「我は信ず」と単数形での表現だから、個人的信仰告白文としての一面を持つと同時に、一つの標識のもとに同信の者が集って教会を建ていくための共同体共有の信仰告白的文章であるので、「我は信ず」は、ニケヤ信条のように「我らは信ず」と同じと考えてよい一但し、ニケヤ信条のラテン文は「我は」となっている)。

 新約聖書では信仰を告白するという場合の「告白」は、ギリシア語でホモロギア、動詞ではホモロゲオである。それは、ホモ(同じ)とレゴー(語る)、従って同じ言葉を語ることである。それは、同意する、一致するなどの意で、「イエスは主である」(Tコリント12:3)と教会が告自することばに、口の言葉で同じことを公けに表明し同意することを言うのである(ローマ10:9,10)。すなわち、キリストを信仰をもって主と告白するとき、他の信徒と同じ言葉をもって告白することになるので、個人的・内面的告白にとどまることなく、共同体全体が共有する告自条項への一致の表明ともなる。信条は、常にこの両者、個と全体の両者を合む告白文である。

 今日われわれが親しんでいる使徒信条の、今の形での完成は、八世紀頃である。ところが二世紀の半ば過ぎにはすでにその原型となる古ローマ信条と呼ばれるものが存在し、教会で用いられていた。それは、初めは迫害期であったため、文字に記すことはさけて伝えられていたようだが、これが原型となって、やがて使徒信条と言われるものへと発展した。それは洗礼志願者の信仰教育のため、また洗礼の誓約文として用いられていたと考えてよい。このローマ信条は、今日の使徒信条に比べて、大筋は全く同じである。この古くからのものに幾つかの文言が徐々に加えられ、八世紀頃に定まったもの、これが今日の教会が告自している使徒信条である。例えば「陰府にくだり」は、4世紀の終り頃から5世紀の初め頃にかけて加えられ、使徒信条の中に公に採用されたのは、6世紀も中頃過ぎである(570年)。

 通常、古代信条とか基本信条と言われるものとして、使徒信条、ニケヤ信条(ニケヤ・コンスタンチノープル信条)、カルケドン信条、アタナシオス信条の四つがあげられる。この中で、ニケヤとカルケドンは、キリスト論々争の中で、しかも教会々議で決められたものである。それは、異端との論争の結果作成された。ところがアタナシオス信条(作者不明)は、ニケヤ信条やカルケドン信条の内容を論理的に整理しまとめたような内容で、三位一体論と二性一人格の教理を、非常に明解に表現しているが、異端的理解に否を表明しているものの、直接には新しい異端との論争の結果作成されたものではない。使徒信条も、異端論争の中で育ったものではない。むしろ、キリスト教信仰を積極的に告白したものである。ニケヤ信条にもカルケドン信条にも同様の要素は十分にあるが、作成の直接動機から見ると、これらは異端を排撃して聖書に基づく正統信仰を掲げることに意図があった。これに比べて、使徒信条は、信ずべき主要テーマが能動的に告白されている。勿論、異端に対する意識がないわけではないが、直接の目的はそのようなものではなかった。それらは何よりもまず、使徒的な教えの主要素を、定式化された文章で告白的に述べたものである。ニケヤ信条よりも前からあった古ローマ信条は、迫害期に作られ、迫害の中で告白されたものであるので、当時の教会をとりまく状況は、異端よりも異教であった。従って、異教徒であった者がイエス・キリストの福音にふれ洗礼を受けるにあたっての告白文であった。救いに必要な使徒的信仰を、洗礼を受けるに必要な基本的告白条項にしぼり、表現したものである。

 使徒的信仰とは何か?それはマタイによる福音書16章16節にまで遡って考えられるが、教会的告白としては、28章のイエスの言葉に見てよい。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によて洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19,20)と命じられたあの時に立ち帰って理解するのがよい。使徒的信仰とは、イエスが使徒たちに示されたものであり、キリストへの信仰であり、復活の主の弟子となるために告白せねばならないものである。それは洗礼を受けて使徒的教会につながるためのもので、父と子と聖霊の名による洗礼を伴う信仰であり、三位一体の神の名による洗礼を無視して成り立たぬ告白である。当然のこととして、洗礼に続く聖餐の礼典とも結びつくものである。また、イエスの教えを守るように求められているので、キリスト者の倫理の課題を含むものである。使徒信条には聖餐のことも倫理的生活のことも直接言及はない。そのため、16世紀の宗教改革期に作成された信条的文書、特に信仰間答書には、使徒信条だけでなく、礼典と祈りと十戒とを加えている。これらを加えたというのは、マタイによる福音書28章に遡って考える限り、必然のことと見てよい。

 「我は信ず」と告白する時、何を信じ告白するのか?それは、三位一体の神を信じるのである。その信仰は、使徒的な信仰であるので、使徒たちが霊感された神の言葉として用いた旧約聖書と、使徒的教えが記された新約聖書によって明らかにされた神信仰と解すべきである。ですから、われわれは使徒信条から信仰の教理を学ぶと言うより、旧新約聖書をもって使徒信条を読み取り、それを信じ告白するのである。

 例えば、4世紀末に信条の条文に初めて記されだした「陰府にくだり」をめぐって幾つもの神学的主張が今日ある。また、この言葉が語られだした当初の意味がある。しかしわれわれは、使徒的教え、すなわち聖書にそって神学的に読み取り、それをこの信条文章において表現し告白していくべきではなかろうか。教会は、使徒と預言者の上に建てられているものであるから。

(せんげん台教会牧師)


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